兼務する本要寺の愉快な仲間マサシさんから交通安全札のお礼メッセージを受けた。平素よりとても丁寧に接していただき感謝している。マサシさんは日本料理の調理師だ。今でも滋賀県内の某ホテルの厨房を任され多忙を極める。
今から八年ほど前、二人で身延箱根の旅行をした。料理の先輩として敬愛する師父を事故で亡くし、その供養の旅だった。箱根では思い切って名旅館に宿泊した。その室礼や作法、すべてが超一流だった。客室に入り、マサシさんは私を上座へと促す。私はこの旅はマサシさんが主役だし、年長なのだから上座へと促した。すると「いや、お上人が上座へと進んでください。逆に私が他人に笑われますから」と仰った。亡くなったお父様は若い私を尊敬してくださっていた。それ以上に家内の父を尊敬していた。私はその気持ちを受け継いでくださったマサシさんに感謝しかなかった。
宿の料理も申し分ない美味さで唸った。私は何も気がつかなかったが、食後にマサシさんが「この宿はやはり一流ですね。仲居さんはお上人に魚の腹身を出して、私には背身を提供しました。流石です。ご心配なく。味も一流ですから背身もとっても美味しゅうございまいしたよ」と教えてもらった。
先日ご縁があった親しい在日韓国人のご法事でも、私がお茶や料理に箸つけるまで、全員絶対箸をつけられなかった。私が足を崩すまで足を崩されない。しかも私だけ特上寿司で参列者は上寿司。私は「有難いですが、皆同じ料理で構いませんからお気遣いなさいませんように」と告げると「ありがとうございます。でもこれが〈もてなし〉であり供養なんです。亡くなった母に叱られますから」と。
今は何でも「平等」を言う。師匠と弟子、親と子、年長者と若年層、学校から教壇も消え、あらゆる上下が曖昧になる。上記二例も平等に反すると評されるかもしれない。ただし畏敬の念をかたちで示し、わきまえを自負とする価値観は大切だと思う。それ理解していなければ、OnOFF空気すら感じられなくなってしまう。
法事の時、参列者の子どもが本堂の礼盤(導師席)に座るのを優しく注意すると、親子そろって「何を偉そうに」とか「減るもんじゃあるまいし」と思われたこともあるが、それは野暮でしかない。麻原彰晃が釈尊の金剛法座に座して、世界中の仏教徒から非難嘲笑された事実を思い出さねばならない。節操がない行為は自分のためにも慎むべきだ。
色々記したが、僧侶といえば、昔は皆に尊敬され一歩先を進んで教え導く存在だった。しかし現在は僧侶が率先して縁の下に入って、皆の気持ちを持ち上げる存在でなければならないというのが私の自負だし、現にそのように生活するよう努めている。皆が強い信仰に生きれば先達である僧侶は自ずと尊敬されるだろうが、今は必ずしもそうではない。僧侶の一挙手一投足を皆が注目している。
お寺コミュニティでは世俗のしがらみがなく、僧侶檀信徒問わず皆がそれこそ「平等」に、他者へ常不軽菩薩の如く接し、出し抜くこともなく、助け合い支え合う関係、それでいて長幼の序や礼節わきまえをしっかり持った粋な集団を目指したい。
私も個人的に尊敬する御住職一家がいる。在家だったらその寺院の檀家信者になりたいし、大袈裟ながら異性なら嫁ぎたいと考えるだろう。自然と湧き上がる畏敬の念、もっと砕けて言えば「大好き」なのだ。微力だが一所懸命お支えしたいと考えている。
こんな事は空気感の問題で、説明するまでもないことなのだと思うが、どうも最近は説明しないと理解していただけない事も多く、長々と記してみた。ご承知の通り私はかなり砕けている。気難しいわけではないので誤解なく。
「我深くなんだちを敬う、敢えて軽慢せず、ゆえはいかん、なんだち、皆菩薩の道を行じて、まさに仏と作すことを得べし」
『妙法蓮華経常不軽菩薩品第二十』
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